東南アジア紀行?タイ山地社会の旅 ?

チェンライ旅行記

Yunnanさんの旅行記

テーマ:歴史・文化・芸術

旅行記タイトル:東南アジア紀行?タイ山地社会の旅 ?

旅行期間:1990/07/31〜1992/08/16

旅行記の内容:1990年、タイのチェンマイ周辺の山地社会で、稲作文化の源流を求めて哈尼の人びとの宗教文化をフィールドワークしたときの成果をまとめた拙文です。
哈尼の人びとの故郷は中国の雲南ですが、当時中国にはなかなか入れず、やむなくタイに住む哈尼の人びとの宗教文化を調査しました。
翌年には、念願叶って、中国の西双版納の調査が実現しました。


報告者 菅原壽清

目   次
一 はじめに
二 アカ(ハニ)の人びとの生活空間
 (一)アカの人びとの生活空間
 (二)哈尼の人びとの生活空間
三 稲作のサイクルと儀礼
 (1) 稲作のサイクル
 (2) 稲作儀礼の過程
 (3) 村落・住居空間
 (4) 宗教的職能者
四、若干のまとめ

旅行日程
期間:1990年7月31?8月17日
期間:1991年8月24?9月8日
期間:1992年8月6?16日
(詳しい日程は、「東南アジア紀行?タイ山地社会の旅 ?」をご覧下さい)

 <この報告は「フィールドノート?アカ(ハニ)の稲作儀礼についての覚え書き」と題して、麗澤大学東南アジア研究会より1994年に発表した論文を基に、若干の語句の訂正を行い、写真を追加して作成した。

 また、ここで使用する「山地社会」の語は、地理学的で中立的な用語として用いた。
従来、こうした社会を人類学ではsimple society とか、small scale sosiety (中根千枝『社会人類学?アジア諸社会の研究?』2002年 講談社学術文庫)などの語でとらえられてきた。
しかし、ここでは近年、人類学や地理学などでも用いられるようになってきた、比較的中立と思われる「後背地」の概念によりながら、「山地社会」の語を用いることとした。


(ここではタイの調査についてのみを掲載し、中国での調査については省略した。
なお、省略した記述は「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告)

写真:1990年、タイのチェンマイ周辺の山地社会で、稲作文化の源流を求めて哈尼の人びとの宗教文化をフィールドワークしたときの成果をまとめた拙文です。
哈尼の人びとの故郷は中国の雲南ですが、当時中国にはなかなか入れず、やむなくタイに住む哈尼の人びとの宗教文化を調査しました。
翌年には、念願叶って、中国の西双版納の調査が実現しました。


報告者 菅原壽清

目   次
一 はじめに
二 アカ(ハニ)の人びとの生活空間
 (一)アカの人びとの生活空間
 (二)哈尼の人びとの生活空間
三 稲作のサイクルと儀礼
 (1) 稲作のサイクル
 (2) 稲作儀礼の過程
 (3) 村落・住居空間
 (4) 宗教的職能者
四、若干のまとめ

旅行日程
期間:1990年7月31?8月17日
期間:1991年8月24?9月8日
期間:1992年8月6?16日
(詳しい日程は、「東南アジア紀行?タイ山地社会の旅 ?」をご覧下さい)

 <この報告は「フィールドノート?アカ(ハニ)の稲作儀礼についての覚え書き」と題して、麗澤大学東南アジア研究会より1994年に発表した論文を基に、若干の語句の訂正を行い、写真を追加して作成した。

 また、ここで使用する「山地社会」の語は、地理学的で中立的な用語として用いた。
従来、こうした社会を人類学ではsimple society とか、small scale sosiety (中根千枝『社会人類学?アジア諸社会の研究?』2002年 講談社学術文庫)などの語でとらえられてきた。
しかし、ここでは近年、人類学や地理学などでも用いられるようになってきた、比較的中立と思われる「後背地」の概念によりながら、「山地社会」の語を用いることとした。


(ここではタイの調査についてのみを掲載し、中国での調査については省略した。
なお、省略した記述は「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告)

アカ(ハニ)の人びとの稲作儀礼

 一 はじめに
  (省略・省略した記述は「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告しま  す)
*001 00.00.00 (資料:タイ地図)

 二 アカ(ハニ)の人びとの生活空間
 調査はタイのチェン・ラーイで二カ所・三カ村のアカの人びとの村と中国・雲南省の西双版納で二カ所・四カ村の哈尼の人びとの村を対象として行なった。
いずれも短期間の調査であったが、これらの人びとがどのような生活空間に居住しながら、どのような社会組織を作り、稲作儀礼を営んでいるのか、ここでは生活空間にみる具体的な宗教施設と、それらに関わる人びとのアニミスティクな観念についてとらえておきたい。

*002 00.00.00 (資料:タイ北部における山地社会の人びとの居住地分布図。
中国西双版納については「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告します)

 (一)アカの人びとの生活空間
 調査を行なったタイ北部には多数の多様な人びとが居住している。
最も多いカレンの人びとは約27.1万人で、チェン・マイやメーホーソン(Mae Hong Son)などの地域を中心に、ミャンマーとの国境沿いに北部から南部にかけて広く居住している。
次に多いメオの人びとはチェン・ラーイ、チェン・マイ、ナン(Nan) などに約 8.2万人、ラフの人びとはチェン・ラーイ、チェン・マイを中心に約 6万人が住んでいる。
アカの人びとは、五番目に多く、 3.3万人の人びとがいて、87.6%がチェン・ラーイ周辺に居住している。
このように、それぞれのグループは多少のかたよりを持ちつつも、かなり広い空間に居住しているが、特にチェン・マイとチェン・ラーイにはこれらの人びとの43.6%の人びとが集中し、混在している地域である。

*003 00.00.00 (資料:タイ北部におけるアカの人びとの居住地域)

 チェン・ラーイ県はタイの最北部に位置し、ミャンマーとラオスに国境を接した地域である。
チェン・ラーイ県の西側には標高 1.000? 2、000mの山地が北から南へと連なり、東側はメコン川に接して盆地や平野が広がっている。
チェン・ラーイ県の中心がチェン・ラーイ市で、この地域の行政の中心として古くより栄えてきた。
この市の北側をミャンマーから流れ出たメー・コック(Mae Kok) 川が流れ、メコン(Mae khong) 川にそそぎ込んでいる。
この川をはさんだ両岸の平地にはタイの人びとが、上流のミャンマーに至る山地一帯にはアカの人びとをはじめとしてメオ(Meo) 、ヤオ(Yao) 、カレン(Karen) 、リス(Lisu)、ラフ(Lahu)などの多様な人びとが居住している。

*004 00.00.00 (資料:タイ北部における山地社会の人びとの居住地分布図)

また、チェン・ラーイ市から車で一時間半ほど北上すると、チャンセン(Chiang Saen) やメー・サイ(Mae Sai) に至る。
チャンセンはメコン川をはさんでラオスと接する国境の街、メー・サイはミャンマーと接する国境の街で、付近の山地には多様な人びとが多数居住している。

*005 92.08.12 (チェンライの北に連なる山地地域。
平地と山地)

 タイにおけるこれらの人びとの生活空間は、各グループによってその居住地域も少しづつ異なっているが、こうした水平的な広がりに加えて、さらにいくつかのグループが混住する山地では互いに垂直的な住み分けが行われている。
平野や谷間にはタイの人びとが居住し、 1、200m位の雲の掛らない山腹・山稜の尾根筋にはアカの人びとなどが、およそ20?30戸 、 150? 200人前後で集落を作って居住しているのが一般的である。

*006 92.08.11 (チェンライの北に連なる山地地域)

また、雲の掛る 1、200m以上の高地の山稜にはラフやメオの人びとなどが居住している。
こうした住み分けは異なる作物栽培と関係しているといわれるが、実際にはケシ栽培や焼畑の禁止、さらには定住化政策などにより異なるグループが同じ地域に居住しているなど、例外も少なくない。

 さて、調査は1990?92年の 8? 9月にかけて三回実施した。
場所はチェン・ラーイ市の北西に連なる山地で、そこに居住するアカの人びとの集落を対象として行ったものである。
調査は雨季の季節でもあり、比較的容易に訪れることのできる集落、二カ所三カ村で行った。

*007 92.08.11 (山地地域に居住する人びと)

一カ所はメーサイに近いドイ・トゥン(Doi Tung)のPK村というロイミ・アカの人びとの村である。
他の一カ所はドイ・メーサロン(Doi Mae Salong)へ行く途中で訪ねたウロ・アカの人びとの住むSY村と同じくウロ・アカの人びとの住むSS村の二つの村である。
以下では、この三カ村とこれまでの研究報告から人びとの生活空間についてみておきたい。

<注:集落への訪問はチェンマイ大学高地民族研究所の指導、現地でボランティア活動を行っている方々の案内により、実施しました>
*008 92.08.12 (山地地域に居住する人びと)

 ? PK村
 ドイ・トゥンのPK村に行くには、チェン・ラーイの北約30Kmにあるホイクライ( Huai Khrai) 村から西に整備された道路を車で30分ほど登る。
蛇行しながら急坂を登るにつれて視界が広がり、さらに登ると標高 1、600mの拓かれた山の稜線に出る。
西には、ミャンマーのシャン高原の山々が波打つように連なって見える。

*009 92.08.12 (山地の山並み)

ここは政府の定住化政策によって指定されたモデル地域で、ラフ・ナ (Lahu Na)やウロ・アカの人びとも居住している。
東側の稜線の一つをやや下ると山の斜面にロイミ・アカの人びとの住むPK村がある。
77家族、 550人の住む集落である。
村は稜線から南斜面にかけて造られており、集落の周囲には松が植林され、松林の間にカヤ葺き屋根の高床式入母屋造りの住居が建てられている。
集落の先は、稜線が急に途切れて断崖のように切り立ちパノラマのように視界が開ける。

*010 92.08.11 (山地から見た眺め)

ここからは眼下のやや低い山稜にもいくつかの集落が見え、その向こうに田植えの始まったばかりのメチャン(Mae Chan)やメーサイの水田が広がり、その先にラオスの山並みが遠望できる。
暑い日差ではあるが、平野とは少し違って木陰は涼しく、さわやかな風が吹いていた。

*011 92.08.12 (山地から見た眺め)

 一般に、アカの人びとの村はどのようにして造られたのであろうか。
別の報告によれば、アカの人びとが新しい村を造るときには、先ず村長(ズィマ)や古老によって場所選びが行なわれるという。
村造りの第一の条件は水利の利便である。
村は山の尾根筋にあって、山腹の湧水が出る所が選ばれる。
湧水の出る水源地は聖なる泉( アピ・ロ・フー)とされ、ここは稲作儀礼などを行うときにのみ使用される祭祀用の水源で、日常生活の水はここから引いて使用することになる。
第二の条件は、公共墓地が村から適当な距離を持ち、しかも村の後方にあって村から見えない場所が条件となる。
人びは、死者は鬼となって生前と同じ生活を墓地で営むと観念しており、そのためにそこに近づくことを大変恐れているという。

*012 92.08.11 (人びとの集落)

 二つの条件を満たす新しい村の場所が決定すると、移住が行われる。
全村民がズィマに引率されて、荷物を持って移る。
村の予定地の外で臨時の小屋掛けをしてそこに滞在する。
そして、吉日を選んで村の中央となる所で鉄くずを四方に撒き、鍛冶屋の持つ呪術的力で土地の悪霊を払う。
ズィマは、鶏卵一つを耳の高さから落として占う。
そして、卵が割れると神が認めてくれたものとして、その場所に杭を立てる。
一度で割れないときには、三回まで占う。
神の許しが得られると、杭を立てた所に、先ずズィマの家が建てられるという。

*013 92.08.12 (人びとの集落)

次に、村の「聖樹」選びが行われる。
聖樹の選び方は、ズィマによって一本の聖樹が選ばれる。
聖樹は、木の種類や大きさよりも、神が宿るにふさわしい松などの常盤木が選ばれる。
聖樹の前で、ズィマと古老はぬかづいて村をつくる許しを乞い、神の降臨を願う。
神の降臨の手続きが済むと、聖林の整備より先に、村の入り口と出口の門が作られるという。
このPK村は、政府指定地のために自然村とは言い難いものの、集落の条件をよく保持していると思われた。

*014 92.08.12 (聖樹)

 この村の古老の一人、AHさん(86歳)の家を訪ねる。
AHさん達、この村の人びとは60年前に中国の雲南から数グループと一緒に南に下り、20年ほど前にAHさん達のグループはこのドイトンに移住してきたという。
政府の指導で二つのグループが一緒になったので今のように大きな村になったが、AHさんの一族は当初からグループの中心で、今は息子さんが村長を務めている。
AHさんの家族は子供が15人で、奥さんが二人いたが、先妻は 5年前に死亡し、子供たちも今は独立しているという。

*015 92.08.12 (AHさん。
写真は了解をえて撮影したものです)

 家屋は土地を平らに整地した上に建てられた、いわゆるカヤ葺き屋根の高床式入母屋造りである。
屋根は日本の神社などにみる千木や堅魚木に類似した形式がみられ、千木の下に魚の骨のような飾り(懸魚)が四本下がっている。
カヤ葺き屋根は床まで覆いかぶさり、床は人の高さよりやや高い。
日本ではこの床下に壁を付けて住居とするが、ここでは床下は物置や豚などの動物の住まいで、アカの人びとはこの床上の屋根裏を住居としている。
入口は母屋から張り出した穀物などを干す露台に階段が取り付けられ、ここから家に入る。

*016 92.08.12 (代表的な家屋)

家の中は全体で30畳敷位の広さがあろうか、部屋の中は三分の二ほど張り出した壁板で二分し、入口に近い方が男性、奥が女性の部屋、残りの三分の一は、いわば両部屋を結ぶ廊下のような共有された空間からなるアカの人びとの独特の形式である。
採光用の窓がないので、部屋の中は薄暗い。
男女両方の部屋に囲炉裏があり、来客は男性の部屋の囲炉裏でもてなし、料理と食事は女性の部屋の囲炉裏で行う。
男女とも中央の壁際にベットがある。

*017 00.00.00 (資料:中国の哈尼の居住空間図)

女性部屋の奥まった壁際に祖先神を祀った柱があり、この柱には数本の茅が縄で縛り付けられている。
さらに、その近くのベットの頭上には祖先や穀霊を祀るための竹で編んだ小さな神棚がその上端を屋根の垂木に結んで備付けられている。
神棚の下には種籾を包んだ藁筒が下げられ、その下には蓋付きの竹籠が置かれている。
大きさは背負い籠ほどで、それは祖先の霊や穀霊が休む大切な入れ物である。
これらの管理は女性の大切な役割となっている。

*018 92.08.11 (神棚と藁筒)

 この地域のこれらの人びとの衣装・装飾工芸はすばらしい。
男女とも衣装や身につけた装飾はそれぞれグループの特徴をあらわしている。
アカの人びとの男女も一見してそれとわかる衣装と装飾を身につけている。
一般に、男性は特別の儀礼のときに正装することが多い。
衣装は上着とズボン、装飾品は短剣とショルダーバッグである。
上着は濃紺の木綿生地に胸元に赤で刺繍したり、アップリケや銀の飾りを取り付け、背中の方に凝った模様を付けた、丈が45cm位なものが多い。

*019 00.00.00 (資料:カノミタカコ『神話の人々』紫紅社 1991年より)

ズボンは濃紺の木綿生地で刺繍はしていない。
装飾の短剣は象の骨、銀、七宝などで飾った長さ約30cm位のもので、正装には欠かせない。
また、ショルダーバッグは地位や財産をあらわすものとして、やはり正装には欠かせない装飾品である。
AHさんは、このときは普段着だったが、奥さんはアカの人びとの独特の衣装と装飾を身につけていた。

*020 00.00.00 (資料:カノミタカコ『神話の人々』紫紅社 1991年より)

女性の衣装は上着、スカート、脚半、前飾りからなっている。
上着は木綿の濃紺の生地にロイミ・アカの人びとの独特の赤色の細かい渦巻き模様を背中に刺繍したものである。

*021 00.00.00 (資料:カノミタカコ『神話の人々』紫紅社 1991年より)

丈は約70cm位で、赤と黒のコントラストがみごとである。
スカートは上着と同じく木綿の濃紺の生地で作った、丈は40cm位のものである。
脚半も木綿で作られ、上着と同じように刺繍が施され、長さは各30cm位である。
前飾りは濃紺の木綿生地に刺繍を施し、銀で飾ってビーズの房をつけたもので、これを胴から前に垂らしている。

*022 00.00.00 (資料:カノミタカコ『神話の人々』紫紅社 1991年より)

また、装飾は頭飾り、ブレスレットなどからなっている。
ロイミ・アカの人びとの頭飾りは黒い木綿の生地にアワ状の銀の粒を縫い付け、両側からピンポン玉のような銀の玉や銀の古銭をつなげてその先に銀の三角板を結んでぶら下げたり、さらに後ろに銀の板を付け、首から胸元にかけてビーズをつないだ房の装身具をたくさん下げているところに特徴がある。

*023 00.00.00 (資料:カノミタカコ『神話の人々』紫紅社 1991年より)

また、腕には板状の銀製のブレスレットを付けていることが多い。
こうしたグループ独自の衣装や装飾はグループ間を識別する標識の機能を果たすとともに、宗教的世界観をあらわした人びとの神話の表象としての機能を持っているものと思われる。
その身体的、象徴的意味については中国の哈尼の人びとの報告で触れることとしたい。

*024 00.00.00 (資料:カノミタカコ『神話の人々』紫紅社 1991年より)

 家の外には、どの家にも庭か軒下に祖先霊や穀霊を祀る小さな祠があり、これをチジ・シマ・オーフムと呼んでいる。
高さは 1.5mほどで人の高さよりもやや低く、四本の丸竹の柱の上端に一辺が30cm、高さ40cm、奥行き30cmほどの祠が作られている。
正面は上下に開閉できるようにカヤでおおいが作られ、屋根は後ろに流した片流れのカヤ葺き、両側は竹で編んだ網代のおおいで囲んでいる。
この祠は、普段は放置されているようだが、稲作の開始のときには、祭祀用の施設として重要な機能を果たすことになる。

*025 92.08.12 (チジ・シマ・オーフム)

 村には門と聖林があった。
日常使う道とは別に林の中に下草の茂る細い道があり、門が建てられていた。
高さは約 2.5m、幅は 1.8mほどの木の門であった。
門は重ねて三つ建てられており、一年に一つ建て直すといわれるので、少なくともこの場所に門が作られて三年以上経っていることになる。
一番手前の門の笠木には鋸歯紋が刻まれ、その上には木彫りの鳥が二羽と木彫りの壺が置かれ、笠木の側面と柱には竹を薄く切り15枚ほど重ねて一つ目(籠目)に編んだ、直径30cmほどの呪標(アカの星ともいう)をいくつも重ねるように沢山縛りつけ、さらに笠木の上に竹を薄く細く削りリング状に編んだ呪標が掛けられていた。

*026 92.08.12 (聖なる門)

また、 4? 5mはあろうか、二本の竹が柱に縛られて立てられ、その上端を重ね合わせて弧を作り、中央から薄く削った竹で編んだ百足状の呪標とリング状の呪標を門の上方に垂らしている。
古い門の笠木を見ると、二つともすでに呪標はなく、三年前の門の笠木には50cmほどの両腕のない木彫りの像が取り付けられてそのままになっていた。
二本の笠木に彫られた紋様を見ると、二年前の門の笠木は鋸歯紋だが、三年前の門の笠木は鋸歯紋の山形の模様に、さらに線が加えられた複雑な模様であった。
どうやら、飾りや模様は毎年同じものというわけでもなさそうである。
また、別の報告では男女二体の木偶の存在が報告されており、今回も下草に覆われて見えにくくなっていたものの、それらを確認することができた。

*027 92.08.12 (聖なる門)

 門の建立に関しては、別の報告によれば次のような方法で建てられるという。
門(lo khon または low kah)の建設は村の男達で行う。
表門から始めて、次いで裏門を建てる。
門の建設には各戸から一人の男が参加し、他の者は全て門の外で待つ。
全てズィマの指揮で行い、必ずズィマが初めに行う。
材料は近くの樹木を伐採して用いる。
二本の柱の間隔と高さは、ズィマの人体寸法による。
間隔と高さは一尋(約 1、8m)と一肘。
柱の深さは一肘で、向かって左側の柱の穴に生卵・米・銀貨の削ったものを入れる。
パードンという笠木は一尋半の角材を用いて、九つのアボボーという鋸歯紋を刻む。
そして、笠木にノクーンという鳥の彫刻や竹の水筒などを置く。

*028 92.08.12 (聖なる門)

鳥の彫刻は天から降臨する神の乗り物といわれ、竹の水筒は降臨した神への供物という。
そして、ズィマによって門の柱にはジャンクという一連の竹のリングで作った一種の注連縄(花の意)が張られ、ダレ(da leh)という呪標が貼り付けられる。
左側の柱の根本に、アダ・ミダとかタ・パ・マーと呼ぶ男女一対の木彫の像=祖先神を立てる。
門の外側の土手に、まずズィマが矢を一本突き刺し、参加した男性も同様に突き刺す。
矢は近づく悪霊から守り射殺するための武器であるという。
次に、裏門を同じ形式でその日のうちに建てる。
表門は村人の出入り口であり、裏門は死人を担ぎ出すための門である。

*029 92.08.12 (聖なる門)

また、村の第三の出入り口には門を建てない。
ここは追放者や外部で負傷した者を入れるための道である。
門を建て終ると、ズィマはブタ一頭を供犠とする。
村が造られた後は、毎年四月吉日に播種儀礼に先立って門の建て替えが行われる。
このような門に関する伝承には、双生児の誕生による門の建て替え、疫病の流行による呪術的な防御、祭祀の期間中の門外外出禁止、村外者の嫁入にともなう村入りの許可、方角に関する禁忌(西方に悪霊が棲むといわれるために、それ以外の方角に建てる)、毎年播種儀礼に先立つ予祝儀礼としての門の建て替えなどの習慣がみられるという。
また、別の報告によれば、稲作のために村から畑に行くときや帰ってきたときには、必ずこの門をくぐらなければならないという。

*030 90.08.06 (聖なる門)

 門をくぐって10mほど行くと、20年ほどに成長した若松林に出る。
ここだけ松が多く植えられ、下草もなく爽やかな感じのする空間であった。
よく見ると、松の何本かが10m四方の竹垣で丸く囲まれている。
竹垣は高さ 1.5m位の割竹を30cm間隔に立て、下方は動物などが入らないように割竹で狭く編み、中間はあらく、上方は何本かの割竹で狭く編んでいる。
その外にある何本かの松には、竹で編んだ籠目の呪標が一つか二つ 1?1.5 m位の高さに縛り付けられている。
籠目の呪標には目のないもの、一つ目、七つ目のものなどがある。
聖樹や神屋(祠)などは確認できなかったものの、ここが聖なる場所であることは、これらの籠目の呪標が示していた。

*031 90.08.06 (籠目の呪標)

 聖林に関して別の報告によれば、門の建て替えが終った後、その日のうちにミシャ・アボーという聖樹を中心にミシャ・ローという神屋建てが行われる。
聖林は村の外の森にあり、儀式を行う最大の場所である。
聖林の樹木には竹で作ったダレを打ち付ける。
聖樹の回りには広さ 3.1?、高さ1.36mの竹垣で囲み、ジャンクを張る。
聖樹は直径30cm、高さ20m位の木で、その根本に高さ1.36mのナチーナチャ・ホツーという神屋を建てる。
神屋は、屋根がなく、家と同じく九段の梯子を取り付ける。

*032 92.08.12 (呪標)

この聖樹を伝わり天よりトウジョウジョという村の神(聖樹の神でもある)が降臨し、供物を食べる。
神屋は、毎年四月に建て替える。
そのとき、豚、米、酒、茶の葉などの供物を捧げる。
また、周囲には円錐状の木の葉を取り付けた棒を立てる。
この中には綿、その他の供物入れ、森に棲む悪霊をなぐさめるという。

*033 90.08.06(チジ・シマ・オーフム)

 この他、他の報告によればこの村では雨季のはじまる 5月に種をまき、乾季を迎える10月に稲を収穫するという。
その際に、畑の隅に建てた神屋の側に一本の竹の先端を四つに割りそこに竹籠を挟んで畑に突き立てた、高さ50cm位の神棚を造り、「稲の神様、今年の畑仕事は全部終わりました。
これからあなたを村へ運びます」と祈って家に帰り、正月の準備をし、村の全戸の収穫が終わったら正月を迎えるという。

*034 91.09.02 (チジ・シマ・オーフム)

 水源については確認できなかったが、この村は見通しの良い稜線にあり、そこには表門、聖なる林、家の祠、祖先神の宿る柱、祖先霊を祀る神棚、穀霊を包んだ藁筒、畑の祠と神棚など、人びとの宗教的観念を表象した施設が存在していることがわかった。
これらは、村の宗教空間を構成する重要な要件であることが伺える。

*035 92.08.12 (山地の畑)

? SY村とSS村
 ドイ・メーサロンは、メチャンの近くのパサーン(Pazaang) 村から西へ約36Km行った標高 1、400mのところにある。
道路は、舗装されてはいるものの、そこに行くには蛇行したアップダウンの激しい山道を約一時間近くかけて車で登って行かねばならない。
道路は山々の山腹や山稜を縫って造られており、このあたり一帯には、多くのアカの人びとが居住している。
道の途中の両側は全山畑地で頂きから谷間へと拓かれている。

*036 90.08.06 (山地の畑)

フィールドには、やや低いところにトウモロコシが、中腹以上には30cmほどに成育した陸稲が育っていた。
そして山稜の斜面の所々に集落があるのが見える。
それにしても、山々の斜面には驚くばかりに美しい緑豊かなライスフィールドが広がっていた。
山稜の最後の急坂を登ると、かつての中国国民党軍が造ったメーサロンの村に至る。
ここからは、西にミャンマーの山並みが遠望できる。
人びとはここに定住して永年作物であるお茶の栽培で生計を立てており、村には桜が植えられ、山の斜面には松林が広がっている。
このあたりは照葉樹林帯に入るのであろうか、夜は涼しい風が吹いていた。
この村の近くにも、いくつかのウロ・アカやロイミ・アカの人びとの村があり、ライスフィールドのなかに人びとの生活空間が広がっていた。

*037 90.08.06 (ライスフィールド)

 さて、ドイ・メーサロンへ行く途中で訪ねたウロ・アカの人びとの住むSY村について見ておきたい。
この村は、北に張り出した標高 900mの馬の背のような山稜に造られていた。
さらに、稜線の先にも別の村が見える。
この村は13年前にミャンマーから移住してきたアカの人びとによる戸数50、約 300人からなる村である。
道路に接しているために、観光の村にもなっているが、少し中に足を入れるとカヤ葺きの高床式入母屋造りの家屋が建っており、伝統の中に人びとの静かな暮しがあるのが見受けられた。

*038 90.08.06 (村の集落)

 村の中央を車の通る生活道路が貫き、その道路の脇に村の正式な入り口にあたる細い道があり、そこに表門がある。
また、稜線を少し下った村の反対側の道路脇には、裏門が建てられている。
表門の脇は広場となっており、ここに朽ちたブランコとシーソーとがある。
恐らくは、昨年使用したものであろう、四本の細い木を組み合わせた、高さ10m位のブランコが建っており、腰板は木の上端に掛けたままになっている。
シーソーは二本の柱と横木だけを残して放置されていた。

*039 90.08.06(ブランコ)

 表門は、基本的にはPK村のものと変わらない。
ここでも、四つの門が新しいものから順に重ねて建てられているが、五年前の門は笠木が朽ちて柱だけが残り、それ以前の柱は朽ちて脇に横積みされている。
門は新しいものから順に村の外に向けて建てられており、新しい門の笠木の上には鳥の他に、独楽、飛行機、人の像、壺などの木彫りの像が置かれている。

*040 92.08.12 (表門)

また、笠木には鋸歯紋が刻まれ、横には竹で編んだ一つ目の呪標やリング状の呪標が取り付けられている。
柱にも同様に呪標が取り付けられ、細い竹が何本か両脇に立てられている。
門の左脇の根本に高さ1mほどの自然木を加工した両腕のある男女一対の木偶が置かれており、その姿は男女の生殖を表わしたリアルな表現である。

*041 92.08.12 (男女一対の木偶)

 では、対をなす裏門はどうであろうか。
門は稜線をやや下った、人家の途切れた村の外れの道路脇にあった。
稜線の先には別の村がみえる。
裏門は村の境界を示すような位置に建てられている。
門は重ねて三つ外向きに建てられ、古い柱は脇に横積みされて放置されている。
今年建てられた外側の新しい門は、表門と同じように沢山の呪標が取り付けられ、笠木には鋸歯紋が刻まれてはいるが、木彫りの水牛の角を形取ったものが一つ置かれているだけである。
木偶もなく、ややさみしい感じがする。
この両門に囲まれた空間に人びとの暮しがある。
どうやら、門は内と外の空間を区分する力、非日常的な時間のなかで聖なる時間を表出させる潜在的な力を持った宗教的な施設といえそうである。

*042 91.09.02 (裏門)

 村の中を歩くと、カヤ葺き屋根の高床式入母屋造りの家と高床式切妻造りのチジという穀倉、さらに家の庭には祠が見える。
家の屋根には千木や堅魚木があり、家は高床式ではあるがPK村の家と比べて床が低い。
家は稜線の斜面を利用し、家の入り口を斜面の高い方にとり、反対側の斜面の低い方が高床になるように建てられている。
屋根と床の間にやや開きがあり、竹で編んだ壁で囲っている。
人びとの語らいは、軒下の入り口の土間で行われる。
母屋の脇には穀倉があり、その側に祠が建っている。
時季はずれのためか穀倉も祠も、特に儀礼を行った跡は見受けられない。
また、庭には豚が数頭寝そべり、鶏が何羽か歩いている。
牛や馬は見当たらなかったが、豚と鶏は祭儀用の生贄として大切な家畜であるという。
この村では表と裏門、表門の男女の木偶、ブランコ、家の祠などの存在を確認できた。

*043 90.08.06 (千木と堅魚木をつけた屋根)

 また、ウロ・アカの人びとの住むSS村は、この村よりもやや低い所に位置し、道路から少し入った場所にある。
やはり、低い山稜にあり、人口の増加により分村して、今は約 300人が住んでいる村である。
この村の先には、いくつかのウロ・アカやロイミ・アカの村がある。
平地に近い村のためか、人びとの服装はアカの人びとの伝統的なものでなく、ほとんどの人が平服である。

*044 90.08.06 (表門)

 この村では、入り口の道路脇に表門があった。
門の形式は前の村のそれとほぼ同じである。
笠木には鳥などの木彫が置かれ、笠木と柱には呪標が沢山取り付けられている。
また、柱の左脇に男女一対の木偶が置かれている。
周りの木々には一つ目や七つ目、さらには多数の目をもつ籠目の呪標が貼り付けられている。
村人は日常の生活では道路を使用するためか、門の道には下草が生えていた。
そして、門を入ると広場になっている。

*045 90.08.06 (表門)

 家はカヤ葺き屋根の高床式入母屋造りで、穀倉は高床式切妻造りである。
ただ、前の村の家と同様に、家は半高床式である。
屋根が床まで覆っている家と屋根と床に間がある家とがある。
そのうちの、60歳代の夫婦が住む一軒の家を訪ねた。
家はカヤ葺き屋根の高床式入母屋造りであるが、床の高さは50cm位で低い。
屋根と床の間の壁は竹を割って波状に編んだもので周囲をふさいでいる。
露台は屋根で覆われ、穀物を干す台というよりも作業のための台になっている。
部屋は入り口に近い方が男性、奥が女性に分かれ、部屋を二分する仕切りの境に囲炉裏が一つある。
女性の部屋の壁際にベットが置かれ、頭上の壁には先祖を祀る竹製の小さな棚がある。

*046 90.08.06 (チジ・シマ・オーフム)

しかし、棚の上には何も置かれていない。
棚の下、ベットの頭の所には蓋付きの背負い用の竹籠が置かれている。
家の外には、竹製の祠が祀られ、高床式切妻造りの穀倉が建てられている。
婦人はアカの人びとの伝統的な衣裳を着ている。
衣裳は黒の木綿生地で上着、胸当て、スカート、前飾りが作られ、鎧のような胸当てに刺繍が施され、前飾りは白いボタンで飾り付けられている。
装飾の頭飾りはキャップのような簡単なもので、白い刺繍が施され、前側の縁に銀の古銭が付けられている。
この村では、表門と男女の木偶、先祖を祀る棚、家の祠などを見ることができた。

*047 90.08.06 (表門の男女の木偶)

 以上は、タイに住むアカの人びとの生活空間について、主にその宗教空間についてみてきた。
支系間の違いや歴史的な事情の違いなどもあるのであろうか、それぞれバリエーションを持ちつつ村落空間を形成しているようであった。
そうしたなかで共通する点は、村が見通しの良い稜線に造られ、内と外が象徴的に門の境界によって区分され、聖なる木があり、人びとはその空間の内側でカヤ葺き屋根の高床式入母屋造りの家に住んでいること、家の中は男性と女性の部屋に区分され、女性の部屋には先祖を祀る棚があり、家の外には祠が建てられていることなどが確認できた。

*048 92.08.12 (表門)

 (二)哈尼の人びとの生活空間
  (省略・省略した記述は「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告しま  す)
 三 稲作のサイクルと儀礼
  (省略・省略した記述は「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告しま  す)
 (1) 稲作のサイクル
 (2) 稲作儀礼の過程
 (3) 村落・住居空間
 (4) 宗教的職能者
  (省略・省略した記述は「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告しま  す)
*049 91.09.02 (門の梁に置かれた木偶)

四、若干のまとめ
  (省略・省略した記述は「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告しま  す)
 参考文献
  (省略・省略した記述は「雲南紀行?西双版納の旅?」において報告しま  す)
*050 92.08.12 (屋根の千木と懸魚)

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