Yunnanさんの旅行記
テーマ:歴史・文化・芸術
旅行記タイトル:東南アジア紀行?タイ・ラオスの旅
旅行期間:1990/07/31〜1992/08/16

旅行記の内容:1990年、日本とアジアの文化の共通性が注目されるなか、研究会に同行して見た初めてのタイとラオスの姿でした。
宗教人類学を学んだものの、実際のフィールドに出る機会もなく、・・・そうしたときに勇んで出かけた調査でした。
タイは上座部仏教の国なのですが、同時にアニミスティックなピー信仰とも共存しなが人びとの暮らしが営まれているのではないのか、そんな思いからまとめた拙文です。
報告者:菅原壽清(すがわら としきよ)
目 次
1、はじめに
2、各地にみられるピィーの祠・祠堂
(1)バンコクとその周辺
(2)チェン・マイとその周辺
(3)チェン・ラーイとその周辺
3、タイ族のピィー信仰
1)地縁組織に関係したピィー(土地神)
2)親族組織に関係したピー
3)悪霊
4、若干のまとめ
この報告は「タイ族のピィー信仰」(駒沢宗教研究会篇『宗教学論集』17・18合併号1992年)に基づいて、写真を貼付したものです。
旅行日程
1990年 北タイ・ラオス調査 麗沢大学東南アジア研究会
旅行目的:タイ北部の山地社会の人びとの生活、ラオス事情について調査
期間:7月31?8月17日
7月31日(火)Dep NRT 18:25 NW27 → Arr Bkk22:50
8月 1日(水)Dep BkkTG Bkk → Arr Chiang Mai
2日(木)Chiang Mai滞在 (Chiang Mai大学高地民族研究所CHOB副所長)
3日(金)Dep Chiang Mai発 → Arr Chiang Rai
4日(土)?5日(日)Chiang Rai滞在 Myanmarとの国境Go1den Triangle
6日(月)?8日(水)Chiang Rai滞在 山地の村 Chiang Rai泊
9日(木)Dep Chiang Rai→ Arr Chiang Mai
10日(金)Dep Chiang Mai → Bangkok 夜行列車.(車中泊)
11日(土)Arr Bangkok→ Dep BangkokQV426 BKK16:30→ Arr Vientiane18:00
12日(日)?13日(月)Vientiane滞在 資料収集 Vientiane泊
14日(水)Dep VientianeQV412 VTE 09:00 →Arr Bangkok l0:30
15日(水)?16日(木)Bangkok滞在 文献資科収集
17日(金)Dep BangkokNW28 BKK 06:50 → Arr NRT 14:55
1991年 北タイ調査 麗沢大学東南アジア研究会
旅行目的:タイ北部の山地社会の人びとの生活について調査
期間:8月24?9月8日
8月24日(土) Dep NRT AI309 12:20 → Arr Bangkok 16:30 Bangkok 泊
25日(日) Dep Bangkok TG104 12:00 → Arr Chiang Mai 13:00
26日(月) Chiang Mai 滞在、Chiang Mai 大学高地民族研究所
27日(火) ?31日(土) Dep Chiang Mai → Arr Chiang Rai →Payao
9月 1日(日) Dep Payao → Arr Mae Sai → Chiang Rai泊
2日(月)?4日(水) Chiang Rai 滞在 Chiang Rai教育大学泊
5日(木) Dep Chiang Rai → Arr Chiang Mai
6日(金) Dep Chiang Mai → Arr Bangkok 列車泊
7日(土) Bangkok 滞在
8日(日) Dep Bangkok AI308 0:35 → Arr NRT 10:25
1992年 北タイ調査 麗沢大学東南アジア研究会
旅行目的:タイ北部の山地社会の人びとの生活について調査
期間:8月6?16日
8月 6日(木) Dep NRT19:00 NW 27 → Arr Bangkok23:15
7日(金) Dep Bangkok → Chiang Mai Chiang Mai大学
8日(土) Dep Chiang Mai Chiang Mai →Payao →ArrChiang Rai
9日(日) Dep Chiang Rai → Arr Mae Kok
10日(月) Mae Kok → 山地社会の村調査
11日(火) Dep Mae Kok → 山地社会の村
12日(水) Dep Chiang Rai → Arr Mae Sai 山地民族の村
13日(木) Dep Mae Sai →Chiang Rai →Arr Chiang Mai →Bangkok 夜行列車
14日(金)?15日(土) Arr Bangkok滞在
16日(日) Dep Bangkok06:30 → Arr NRT14:55
写真:1990年、日本とアジアの文化の共通性が注目されるなか、研究会に同行して見た初めてのタイとラオスの姿でした。
宗教人類学を学んだものの、実際のフィールドに出る機会もなく、・・・そうしたときに勇んで出かけた調査でした。
タイは上座部仏教の国なのですが、同時にアニミスティックなピー信仰とも共存しなが人びとの暮らしが営まれているのではないのか、そんな思いからまとめた拙文です。
報告者:菅原壽清(すがわら としきよ)
目 次
1、はじめに
2、各地にみられるピィーの祠・祠堂
(1)バンコクとその周辺
(2)チェン・マイとその周辺
(3)チェン・ラーイとその周辺
3、タイ族のピィー信仰
1)地縁組織に関係したピィー(土地神)
2)親族組織に関係したピー
3)悪霊
4、若干のまとめ
この報告は「タイ族のピィー信仰」(駒沢宗教研究会篇『宗教学論集』17・18合併号1992年)に基づいて、写真を貼付したものです。
旅行日程
1990年 北タイ・ラオス調査 麗沢大学東南アジア研究会
旅行目的:タイ北部の山地社会の人びとの生活、ラオス事情について調査
期間:7月31?8月17日
7月31日(火)Dep NRT 18:25 NW27 → Arr Bkk22:50
8月 1日(水)Dep BkkTG Bkk → Arr Chiang Mai
2日(木)Chiang Mai滞在 (Chiang Mai大学高地民族研究所CHOB副所長)
3日(金)Dep Chiang Mai発 → Arr Chiang Rai
4日(土)?5日(日)Chiang Rai滞在 Myanmarとの国境Go1den Triangle
6日(月)?8日(水)Chiang Rai滞在 山地の村 Chiang Rai泊
9日(木)Dep Chiang Rai→ Arr Chiang Mai
10日(金)Dep Chiang Mai → Bangkok 夜行列車.(車中泊)
11日(土)Arr Bangkok→ Dep BangkokQV426 BKK16:30→ Arr Vientiane18:00
12日(日)?13日(月)Vientiane滞在 資料収集 Vientiane泊
14日(水)Dep VientianeQV412 VTE 09:00 →Arr Bangkok l0:30
15日(水)?16日(木)Bangkok滞在 文献資科収集
17日(金)Dep BangkokNW28 BKK 06:50 → Arr NRT 14:55
1991年 北タイ調査 麗沢大学東南アジア研究会
旅行目的:タイ北部の山地社会の人びとの生活について調査
期間:8月24?9月8日
8月24日(土) Dep NRT AI309 12:20 → Arr Bangkok 16:30 Bangkok 泊
25日(日) Dep Bangkok TG104 12:00 → Arr Chiang Mai 13:00
26日(月) Chiang Mai 滞在、Chiang Mai 大学高地民族研究所
27日(火) ?31日(土) Dep Chiang Mai → Arr Chiang Rai →Payao
9月 1日(日) Dep Payao → Arr Mae Sai → Chiang Rai泊
2日(月)?4日(水) Chiang Rai 滞在 Chiang Rai教育大学泊
5日(木) Dep Chiang Rai → Arr Chiang Mai
6日(金) Dep Chiang Mai → Arr Bangkok 列車泊
7日(土) Bangkok 滞在
8日(日) Dep Bangkok AI308 0:35 → Arr NRT 10:25
1992年 北タイ調査 麗沢大学東南アジア研究会
旅行目的:タイ北部の山地社会の人びとの生活について調査
期間:8月6?16日
8月 6日(木) Dep NRT19:00 NW 27 → Arr Bangkok23:15
7日(金) Dep Bangkok → Chiang Mai Chiang Mai大学
8日(土) Dep Chiang Mai Chiang Mai →Payao →ArrChiang Rai
9日(日) Dep Chiang Rai → Arr Mae Kok
10日(月) Mae Kok → 山地社会の村調査
11日(火) Dep Mae Kok → 山地社会の村
12日(水) Dep Chiang Rai → Arr Mae Sai 山地民族の村
13日(木) Dep Mae Sai →Chiang Rai →Arr Chiang Mai →Bangkok 夜行列車
14日(金)?15日(土) Arr Bangkok滞在
16日(日) Dep Bangkok06:30 → Arr NRT14:55
1、はじめに
先ず、はじめにタイに関する一般的概況について述べておきたい。
タイは「微笑みの国」とか「東洋の米びつ」などとよばれている。
それは国民の多くが信仰心の厚い仏教徒であり、農業従事者であるというように、寛容で礼儀正しい人びとと自然に恵まれた国であることによるからであろうか。
*001 撮影:1991.09.07(王宮の寺院)

ただ、近年は外国資本の導入などにより工業の発達もめざましく、タイを中心に周辺諸国をも巻き込んだバーツ経済圏が形成されつつあるなど、東南アジア諸国の中でも経済的成長がめざましく、急激に変貌を遂げている国でもある。
しかし、近年の急足な経済成長は都市部とその他の地域との所得配分をめぐる格差を生み、深刻な国内問題も生じてきている。
*002 撮影:2000.03.03(バンコク市内)

タイの地勢は、北から南へ走行する山地と河川、それらに沿って開かれた平野から構成され、西方のミャンマーとの境を画するテナッセリム山脈と東方のメコン川との間に広がっている。
一般に、タイの国土を地形的特徴からみると、北部・中部・東北部・南部の四地域に大きく区分される。
面積は51.4万Km2 、日本の約1.4倍あり、人口は1990年現在で、推定5,720万人、首都バンコクは585万人である。
*003 撮影:1990.08.11(タイ東北・上空より)

バンコクから北部の古都チェンマイに向かって、飛行機や列車で移動するときに目にする光景は雄大である。
北部はチャオプラヤー(メナム)川上流に位置し、標高1000m前後の山並みが連なる山間盆地地帯からなり、古から集約的な伝統農業が行われてきた地域である。
また、中部はチャオプラヤー川中・下流の大沖積平野からなり、水田と運河が広がる豊かな穀倉地帯である。
これに対して、バンコクからラオスのビエンチャンに向かう飛行機の中から目にした東北部の北には、赤土の大地が広がっていた。
この東北部にはコーラート高原と呼ばれる台地が広がり、東のメコン川に向かってゆるやかに傾斜している。
*004 撮影:1990.08.11(タイ東北・上空より)

また、西にはベッチャブーン山脈とドンパヤージェン山脈があり、南にはドンラック山脈があってカンボジアと画している。
しかし、この地域は他に比して地味に乏しく農業は不安定であるといわれる。
また、南部はマレー半島に属する地域である。
バンコクから南に下ると、そこは北部とは異なった景観が開けている。
タイ湾側の遠浅の海岸沿いには塩田が広がり、ヤシなどが茂って、南部は美しい海岸線が続いている。
*005 撮影:1991.09.07(バンコク郊外)

この国の気候は、マレー半島が熱帯雨林気候、その他の大部分は熱帯モンスーン気候の影響下にある。
5?10月は南西の季節風が吹く雨季にあたり、11?4月は北東の季節風が吹く乾季、2?5月は極度の乾燥と高温にみまわれる酷暑季である。
こうした気候風土は、稲作などの農業を中心として営まれてきたタイの人びとの生活様式と深く関わりながら独自の文化を育んできた。
*006 撮影:2000.03.05(バンコク郊外)

タイの人びとは、タイ以外にも中国南部や東南アジア大陸部を中心に広範囲に住んでおり、一般にはタイ語を話し、仏教を信じ、姓を持たず、低地渓谷移動の水稲耕作民といわれている。
しかし、例外も多く、こうした伝統的定義だけではとらえられないが、タイ文化を共有するタイ族が中心となって創った国がタイといわれる。
*007 撮影:1991.12.29(中国西双版納熱帯植物園古代タイ文字)

タイの民族構成は、言語学的にはタイ・カダイ語群に分類されるタイ系民族が人口の80%を占めているといわれる。
それは、中部タイに分布するシャム・タイが最も多く、タイに住むタイ族の中心となっている。
また、東北タイにはラオ、北タイにはタイ・ユアン、南タイにはパタ・タイが優勢であるという。
この他に、北タイにはタイ・ルー、タイ・ヤイ、東北タイにはプー・タイなどの少数のタイ系の人びとのグループが居住している。
*008 撮影:1991.12.29(中国西双版納のダイの村)

また、タイ系民族以外の民族では、中国系の民族が300万人以上、インド系の人びとがバンコクを中心に約6万人、東北タイの小都市にはベトナム人も住んでいる。
さらに、南部の国境地帯にはマレー系民族が約100万人住み、そのほとんどはイスラム教徒であるといわれる。
その他、タイ国内では極めて少数派に属するものの、北部の山地地帯を中心にシノ・チベット系のチベット・ビルマ語族に属するアカ・リス・ラフやカレン、オーストロ・タイ系のメオ・ヤオ、オーストロ・アジアティック系のフライン・ラワ・カム・ムラブリなどの人びとなど、約50万人が住んでいる。
*009 撮影:1990.08.16(バンコク市内の華人社会)

タイの歴史については、タイ族による国家形成が文献的に立証可能な時期は13世紀以降であるといわれる。
現在中心をなしているタイ族の起源については諸説が多い。
なかでも、定説となっているのは、現在の中国南部の雲南省から四川省南部とされ、これらの地域からインドシナ半島へ南下し、定着した民族であると考えられている。
しかし、言語学的には広い地域で比較的等質なタイ語群が分布している点からみて、タイ族の移動は過去1000年内外ではないかと推定されている。
*010 撮影:1991.12.29(中国西双版納のダイの村)

現在の北部タイにみられる山地社会の人びとが政治的動乱のなかで、近年に至って中国からミャンマーをへてタイへと移住して来たように、過去にもそうした移住があったであろうし、稲作に適した新しい土地を求めて、ゆるやかな持続的移住が行われたであろうことも考えられる。
文献上では立証困難としても、北部タイのチャンセン、チェンライ、チェンマイなどを訪ねると、そこにははやい時期に小国家が形成されたタイ民族の興亡の跡を見ることができる。
*011 撮影:1990.08.03(チェンマイ市内・王宮跡)

その後、13世紀半ばにタイ族の一部がクメール王国を滅ぼして、スコータイを都とする王朝を開き、現在のタイ王国の基礎が確立され、以来アユタヤ、トンブリ王朝を経て、1782年にチャックリー王朝がバンコクに遷都して現在に至っている。
*012 撮影:2000.03.05(アユタヤ)

タイにおける宗教構造を概観すると、タイの人びとが稲作農耕民として育んできたアニミズム信仰、国家の形成過程で他の民族からとり込んできたヒンズー教や上座部仏教が重層化しながらタイの人びとの信仰生活や王権をささえる上で重要な機能を果たしてしており、構造的には日本のそれときわめて類似していることに驚く。
ただ、日本の宗教と比較してその成立過程をみると、タイの人びとはクメールの高度な文明と仏教文化を積極的に採り入れ、民族の統一をはかったために、タイ族の部族神が民族宗教へと発達する機会がなく、日本のように民族宗教が人びとの統一に機能していないことである。
*013 撮影:1992.08.14(バンコク市内・ワットプラオケ)

しかし、タイの人びとの信仰形態の基層部に伝統的な信仰を持ちつつ、重層化した形で信仰形態が形成されており、タイの人びとの宗教形態をとらえようとするときには、つねに複眼的な視点が必要であることはいうまでもない。
*014 撮影:1992.08.14(バンコク市内・ワットプラオケ)

さて、この小論ではタイ北部や中国の雲南省西双版納などの一部地域で実施してきた山地社会の人びとの伝統的文化の調査、ラオスでの調査過程で見聞したささやかな観察をもとに、主にタイを中心としたタイの人びとのピィー信仰について、若干の報告を行うものである。
調査は今後とも継続される予定であり、山地社会の人びとの調査と合わせてタイの調査を今後とも行っていきたいと考えている。
その意味でも、この小論はこれまて先学が行ってきた成果を整理し、今後の調査に向けての予備的な中間報告であることをお断りしておきたい。
*015 撮影:2000.03.05(バンコク市内・エラワン・プラポム神)

2、各地にみられるピィーの祠・祠堂
タイの宗教は、一般に上座部仏教、ヒンズー教、アニミズムなどが重層化しながら、それぞれ機能を果たしているといわれる。
しかし、それらの歴史的な背景は複雑で、王権を支える原理としては仏教とヒンズー教が機能し、タイの一般の人びとは信仰厚い仏教徒であると同時に、現世のレベルではヒンズーとアニミズム信仰が強いといわれる。
*016 撮影:1992.08.14(バンコク市内・ワットプラオケ)

今回は、タイの宗教全体をとらえる紙幅はないので、ここでは、バンコクおよびその周辺、タイ北部のチェンマイとチェンライ、さらに中国の雲南省西双版納で観察した祠・祠堂などから、主にピィーに関するアニミズムについて、その事例をとりあげて若干の報告を行っておきたい。
*017 撮影:1992.08.14(エラワンのプラプム神)

(1)バンコクとその周辺
バンコクは、人口約600万人のタイの首都である。
首都の中央をチャオプラヤ川が流れ、かつては「東洋のベニス」と讚えられた水の都であった。
1960年代に入ってから工業化がすすみ、近年では高層ビルが林立し、騒音の中にも活気に満ちた近代都市へと変貌している。
しかし、かつての水の都が失われたわけではない。
今も、縦横に走る運河は物の運搬だけではなく、人びとの日々の暮らしと関わって、そこで生活が営まれている。
*018 撮影:1990.08.16(チャオプラヤ川)

バンコクを歩いていて目にするのは、いたるところにあるワットと呼ばれる仏教寺院である。
なかでも、プラ・ケオ寺院は王宮の側に位置して、バンコクを代表する寺院である。
ここで年間を通して王室のさまざまな儀式が執り行われる。
*019 撮影:1990.08.16(プラ・ケオ寺院)

この寺院は、別名エメラルド寺院とも呼ばれ、王宮と並んできらびやかな建て物である。
ここにはエメラルドの仏像が本尊として安置されている。
この仏像には、民族の興亡の歴史が秘められ、不思議な力をもつ仏像として人びとから崇められてきた。
タイの人びとにとって、特別の仏像であり、単に仏教徒としての参詣にとどまらず、さまざまな願いをこの仏像に託すためにやってくる人びとで終日賑っている。
*020 撮影:1990.09.07(プラ・ケオ寺院)

本殿の奥の一段と高い場所にこの仏像が安置され、周囲を黄金で飾り立て、ライトアップされた姿は、参詣者を魅了して止まない。
本殿入口の前には、大きな水ばちがあり、よく見るとタイの人びとはこの水をほんの少し手にして身体に振りかけている。
単に清めの水というよりも、聖なる水としての力を信じ、何かを祈願している様子であった。
*021 撮影:1990.09.07(プラ・ケオ寺院)

こうした仏教寺院の他にも、多くの人びとから信仰をあつめているラク・ムアンという「市の柱」の礎石、守護神を祀った祠堂や記念碑、数知れないピィーの祠などがある。
さらに、華僑が多く住むヤワラート周辺では、いくつかの道教寺院があり、華僑の店には必ず道教の神が祭壇に祀られていた。
どうやら、人びとはそれぞれの宗教を明確に区分しているわけではなさそうで、さまざまな宗教施設と関わりながら生活を営んでいるように見受けられる。
*022 撮影:1990.08.16(ヤワラートの道教寺院)

バンコクの繁華街で、ひときわ人びとの厚い信仰を集めている施設に、ヒンズーの神を祀った祠がある。
この祠について、ここに1982年の新聞記事がある。
「モンスーン?アジア万華鏡」と題したシリーズの一つで、記事のタイトルは「ホテル“付属”の神様」というものであった。
この記事の内容の要点は次のようなものである。
*023 撮影:1992.08.14(エラワンホテル)

”「大学に入学できますように」「宝くじを当てて下さい」「すばらしい結婚相手が見つかりますように」・・・。
タイ国営エラワンホテルの一角にあるお堂は、プロム神に願かけする人びとで昼も夜もにぎわっている。
???プロム神は、専門家によると、ヒンズー教で二番目に偉い「創造の神」という。
1952年、当時のピブン首相が「これからはバンコクで国際会議も開かなくてはならない。
近代的な大ホテルを一つ造ろう」と考え、ホテルの名をエラワンと決めた。
*024 撮影:1992.08.14(エラワン)

エラワンは三十三の頭に七つのきばがある象。
「ラーマーヤナ」の物語中、一番大きな動物だ。
56年完成予定でホテル建築が進んだが、54年になって完工が遅れそうな気配。
祈祷師に伺いを立てると、「エラワンの名がおそれ多い。
エラワンに乗るプロム神の像を建てたらよい」。
そこで、文部省美術局所蔵の像に修理を施し、堂を造った。
その結果、ホテルは予定より早く55年11月にでき上がった???専門家は、プロム神の乗り物は白鳥で、エラワンに乗るのは戦争の神だ、という。
が、一般の人には、プロム神何でも願ごとをかなえてくれる神様だ、という点が重要。
*025 撮影:2000.03.05(エラワンのプロム神)

エラワンに倣って他のホテルも像を祀ったが、エラワンホテルの神は七、八割願ごとが当たる、と圧倒的な人気を博している。
願ごとがかなうと、寄付をするのが普通だが、願かけの際に「空港まで走ってみせます」???などの約束をする人もいる。
???「願がかなったら踊りを見せます」という客のために、専門の踊り子、楽隊も常駐している。
???69年、寄付金をもとに、プロム神基金ができ、これまでに全国二百五十の病院に各5?7万バーツを送った。
寄付金は現在一日平均約7千バーツ。
これが1月中旬までに約1570万バーツになった???。
”
*026 撮影:1992.08.14(エラワンの専門の踊り子)

以上のような記事であつた。
十年後の1990年、初めてバンコクを訪ねる機会を得たが、このときは日程の都合もあり、ここを訪ねることはできなかった。
ただ、ホテル付きのタクシーでこの横の通りを通過したときのこと、英語を話すインテリーの運転手がハンドルを手放し両手で合掌しながら、猛スピードで交差点を通過したとき、バンコクの市民からいかに厚い信仰を受けているか、その一面をみたような思いであった。
*027 撮影:1992.08.14(エラワンの専門の踊り子)

実際に、ここに訪ねることができたのは、1992年8月のことである。
そこは、ラシャダムリ通りとプロチット通りの大通りが交差するサイアム・スクェアに近い繁華街で、このエラワンホテルの隣りには日本の「そごう」デパートがあるなど、一日中にぎやかな一角に位置し、通りと区分された囲いのなかにあった。
ガイドブックには、エラワン寺院とかピィーの神様と紹介されているが、寺院というにはさほど境内は広くなく、ピィーの神様というにはあまりにも立派すぎるというのが第一の印象であつた。
*028 撮影:1992.08.14(エラワンと「そごう」デパート)

入口からこの聖なる空間に入ると、沢山の人びとが参詣にやってきており、参詣者があげる線香やジャスミンの甘い花の匂いが入り交じり、奉納の音楽と人びとの賑いが日本で見る宗教空間と同様に、聖なる安らぎの空間をつくりだしていた。
入口の脇には神様に捧げる花輪や供物が山のように用意されて売られており、お参りする人びとは、ここで花輪やローソクと線香を買い求める。
*029 撮影:1992.08.14(エラワンの花屋)

この空間の中央に、一段と高くて大きな台座があり、四方が吹き抜けの屋根付きの建物の中に、等身よりやや小さい一体四面の金色のプラ・ポム(プロム神)の座像が祀られている。
周囲を鉄格子の垣根で囲い、四方から礼拝できるように線香立てとローソク立てが置かれている。
人びとは、四方から思い思いの位置でひざまずき、裸足になって合掌した手に火をつけた線香の束をはさみ、この神像に向かって一心に祈っている。
*030 撮影:1992.08.14(エラワン)

この神様は、ヒンズーの神で、天に住む男神であるといわれるが、その祈りの姿は仏教寺院のそれと、ピィーの祠の前でのそれと同様であった。
真剣なまなざしは何を祈願しているのかは知る由もないが、やはり日本人と同じようにこの世の利益を祈っているのであろうか。
この神像の正面に供物を捧げる祭壇があり、ここにお盆にのせたココナツジュース、ミカン、つぼみの蓮の花が供えられ、神像の前にはジャスミンの花びらと赤と黄色い花を糸に通したたくさんの新しい花輪が捧げられており、参詣者がいかに多いかがわかる。
どうやら、花輪とローソクと線香はお参りには欠かせない条件のようだ。
*031 撮影:1992.08.14(エラワン)

神像の周囲には、大きな鉢植えの花や植木が配置され、さらに正面入口とは反対の脇には二頭の親の象と子象の彫像が祀られている。
ヒンズーの神であるガネーシャであろうか、彫像にはたくさんの金箔が貼られているところをみると、この神への信仰も少なくないことがわかる。
また、この広場のすみに音楽を奏でる楽士と踊り子がいる。
祈願が成就したとき、音楽と踊りを奉納するとのことである。
*032 撮影:1992.08.14(エラワン)

きらびやかな衣装を着て金色のとんがり帽子をかぶったタイの古典舞踊姿の女性八人の踊り子は打楽器の奏でる音楽に合わせて、神像の周囲を踊りながらまわる。
一周しても、5分位の舞なのだが、その舞がたえず休みなく奉納されているところをみると、依頼者の多いことがわる。
*033 撮影:1992.08.14(エラワン)

こうした類似の祠は、バンコクでは官庁や銀行、ホテル、デパートといった人びとが出入りする場所で多く目にすることができた。
しかし、このエラワンホテルとは反対側の「そごう」デパートの前に祀られている祠は、神像の大きさから見てもけして引けをとらないし、姿も堂々としているにもかかわらず参詣者は少なく、側の花売り屋さんは暇そうであつた。
*034 撮影:2000.03.05(博物館の庭で)

また、一般の家の庭にも、ピィーを祀った祠があるのを目にした。
この祠を「サーン・プラ・プーム・チャオ・ティ」という。
つまり、土地や屋敷の神様を祀った祠であるという。
バンコク市内や中部・北部タイでは、各家の日当たりのよい庭のすみにこれを一基祀っている。
祠は、たいてい一本の柱の上に小さな家の形をした祠堂が置かれ、祠堂の底部がほぼ人の目の高さになるように配慮されている。
そうしたことから「ホー・ピィー」(神の家)などとも呼んでいる。
*035 撮影:1990.08.16(バンコク市内で)

このホー・ピィーの柱には神をたたえる赤や黄色の薄い布が巻つけられ、祠堂を置く台には線香立てや花瓶、神に捧げる踊り子や象のミニチュアが数個置かれていることもある。
しかし、祠堂の中には、たいてい何も祀られていない。
ただ、北部では日本の不動明王のような剣を持ったテワダーという守護神が祀られている場合もある。
*036 撮影:1990.08.01(チェンマイ市内で)

素材は、木材も見かけるが、近年はコンクリート造りで、寺院形式に倣ってきらびやかな赤、黄、緑、白などを華やかに彩色したものが多い。
少しでも神の気を引こうというのであろうか。
市内や近郊には、こうしたホー・ピィーを売る店もあり、色鮮やかなホー・ピィーがたくさん並べられているのを何度か目にした。
ただ、このホー・ピィーに関しては、若干の地域差があるようで、バンコクからやや南に下ったダムノン・サドアクとその途上で目にしたホー・ピィーについて触れておきたい。
*037 撮影:1992.08.14(ダムノン・サドアク)

バンコクから国道35号線を南西に下ると、いたるところで拡張工事が行われていた。
完成すると上下6車線からなるコンクリート舗装の産業道路になるという。
バンコクと周辺の工業地帯、さらには港湾をへて海外との貿易の動脈になるはずである。
また、道路沿いにはアパートやマンシヨン形式の高層住宅、一戸建ての住宅など新しい住宅団地が都市の繁栄の恩恵を受けた新興の中産階層の人びとの住まいとして各所に建設中であった。
中部・北部タイで目にする、かつての住居形式のイメージを一新するかのような住宅群は、この国の急速な経済成長をみるようである。
*038 撮影:1992.08.14(ダムノン・サドアク)

しかし、今も多くの人びとは、伝統の中で暮らしている。
新しい家にも必ずホー・ピィーが建てられていたし、またバスやトラクのターミナルの入口脇には、十数基ものホー・ピィーの祠が建てられていたり、工場の敷地にも大きなホー・ピィーを目にした。
また、人家のない道路脇にもかなりのホー・ピィーを見かけた。
急速な近代化のなかで、危険と隣り合わせの人びとの暮らしには、中部や北部よりも、ピィー信仰が一層強くあらわれている地域ではないかと思われた。
*039 撮影:1992.08.14(ダムノン・サドアク)

特に、中部や北部と異なっている点は、一基はよく目にする祠なのだが、もう一基はその半分位の高さで四本の柱に祠堂が置かれ、二基で一対となったコンクリート造りのホー・ピィー、やや大きめの木造の祠堂などを見かけたことである。
よく見ると、一対になったホー・ピィーは最近の流行なのであろうか、新しく建てた家とかレストランのような店に多く見られ、木造のそれは村の入口とか従来の住宅の脇に多く見ることができた。
一対になったホー・ピィーは、高い方の一基が先祖の神、低い方の一基が土地の神を祀った祠とのことである。
すると、古い形式ものは、これらが一緒に祀られた祠なのであろうか。
*040 撮影:1992.08.14(ダムノン・サドアク)

ダムノン・サドアクは水上マーケットの町として観光の名所になっている。
バンコクやその周辺は低湿地帯からなり、運河が縦横に走り、近年に至るまで、タイの人びとの日常生活を支える重要な交通路の役割を果たしてきた。
バンコクでは、交通の主役が陸上に移ってしまったが、今もこの地域では人びとの生活の一部となっている。
船に乗って運河を行くと、人びとの生活が運河と共にあることがよくわかる。
家並みが全て運河に面して立ち並んでいて、それぞれの家にはベランダのような縁があり、そこから階段が運河に突き出している。
*041 撮影:1992.08.14(ダムノン・サドアク)

この場所は日常の大切な空間であるらしく、僧侶が小舟で托鉢にやって来るとタンブンを行う場所となり、また朝夕の水浴や洗濯、食器洗いもここで行われる。
また、ここから仕事や買い物に出かけ、来客が来る玄関のような役割も果たしている。
ベランダか家の脇には、運河に面してホー・ピィーの祠が建てられている。
ホー・ピィーのない家も、ベランダの柱を利用して、小さな祭壇を造り、ここに花が飾られ、線香立てが置かれていた。
ここでは、ピィーはこの運河に沿ってやって来るらしい。
*042 撮影:1992.08.14(ダムノン・サドアク)

運河には、たくさんの小舟が行き交っていた。
小舟には、近郊で採れた果物、野菜などが満載されて市場に運ばれて行く。
また、市場に必要な商品を買い付けに行く舟や行商のためにいろいろな商品を積んだ舟などが行き交う。
こうした運河には、家のホー・ピィーだけではなく、明らかに運河か水に対して祀ったと思われる祠などを数多くみることができた。
*043 撮影:1992.08.14(ダムノン・サドアク)

ここで見たやや大きめの木造の祠堂を見ると、四本の柱の上に祠堂が建てられ、膝まづいたときやや目線が上になるほどの高さで、屋根はやや尖った古代タイの住居形式に似ている。
祠堂は、たいてい赤い色で彩色され、地上から神のための階段が取り付けられ、床が張り出していて、そこに果物の供物、水、花、線香立て、踊り子や象のミニチアが置かれ、花輪が何本も下げられている。
しかし、祠堂の奥には神の姿はなく、何も祀られてはいない。
ただ、新しくても古くても、必ず朝に夕に、この祠堂でお参りするのであろうか、どの祠堂を見ても常に新鮮な果物や新しい花輪を見かけた。
*044 撮影:1992.08.14(ダムノン・サドアク)

(2)チェン・マイとその周辺
バンコクから北へ、列車で半日以上、飛行機で約1時間の距離に、北部タイの中心地、チェン・マイがある。
チャン・マイ市は人口約16万人、チェン・マイ県の県庁所在地であるとともに、北部17県の行政、経済、学術・文化の中心でもある。
「北のバラ」とタイの人びとが呼ぶチェン・マイ市は、四方を山に囲まれた盆地からなり、海抜300mの高原に位置し、熱帯モンスーン気候に属しながらも、比較的しのぎやすく、古都として落ち着きのある都市である。
*045 撮影:1990.08.07(チェン・マイ市内)

最初に、ここに都が建造されたのは1296年のことで、マンラーイ王によってランナー・タイ王朝の都が開かれたことに始まる。
それ以来、数度にわたるビルマの支配を受けながらも、今も旧市街には城壁や城門、堀などが残り、その興亡の跡をみることができる。
市内はこの堀に囲まれた旧市街とその東側にメー・ヒン川をはさんで開けた新市街からなっている。
旧市街や北西の山側には多くの古い寺院やチェン・マイ大学などがあり、日本の京都のような古都としての面影を今に伝える都市である。
*046 撮影:1991.08.26(チェンマイ大学高地民族研究所)

チェン・マイの人びとが聖なる山として崇めているのは、北西に位置するステープ山である。
この山の山頂には、1383年に建造されたワット・プラ・タート・ドイ・ステープというチェン・マイを代表する寺院が建っている。
*047 撮影:1990.08.01(ステープ山)

この寺院には、仏舎利を納めているといわれる金色に輝く塔があり、人びとの参詣が絶えない。
タイの寺院は、どこもそうなのだが、赤や黄、青や白、それに金色などできらびやかに彩られ、それがタイの風土によく似合う。
ただ、それらの寺院をよく見ると、日本でいう祈願寺のような寺院、修行と学校を兼ねたような専門の寺院、修行も行うが死者供養も行う寺院があるようだ。
*048 撮影:1990.08.01(ワット・プラ・タート・ドイ・ステープ)

ドイ・ステープの寺院は、本来そうではないのかもしれないが、訪ねてみると観光寺と祈願寺を兼ねたような寺院という印象を受けた。
頂上に登る長い石段の両脇には大きな竜が手すりのかわりとなっている。
雲南やラオス、タイなどに広がる農耕儀礼と結びついたナーガ崇拝の形式で、たいていの寺院にはこれを見ることができる。
こうした土着の宗教との結びつきは、仏教の定着化の上で欠かせない条件であったのではなかろうか。
*049 撮影:1990.08.01(ワット・プラ・タート・ドイ・ステープ)

頂上の本堂の中に入るには、男女とも肌を露出した衣服はタブーである。
中は金色の仏舎利塔と本堂、回廊などからなっていて、回廊には小さな仏像が何体か祀られ、それらは参詣者によって貼りつけられた小片の金箔で黄金に輝いている。
ひざまずき、一心に祈る人びとの姿には、仏陀への信仰以上に、現世の利益を求める真剣なまなざしを感じる。
本堂には金色の仏像が祀られ、入口でお布施を喜捨すると引換えにつぼみの蓮の花、ローソク、線香が手渡される。
金色に輝く巨大な仏陀の立像、その前で蓮の花を捧げ、ローソクを灯し線香をたいて、たくさんの人びとが真剣に何かを祈っている。
*050 撮影:1990.08.01(ワット・プラ・タート・ドイ・ステープ)

参拝が終わると、脇に僧侶が控えており、なにがしかの喜捨をすると、短い経文を唱え、聖水をかけてくれる。
それは呪文なのであろうか、人びとは合掌し額ずいてこれを受ける。
タイの人びとの人生観には、ピィーを避け、クワンという魂を強化することに深い関心が示されるといわれる。
こうした寺院に詣でる人びとは、今どのような人生の節目にあるのであろうか。
*051 撮影:1990.08.01(ワット・プラ・タート・ドイ・ステープ)

いずれにしても、ここには聖なる施設があり聖なる人がいて、それを求めてやって来る人びとがいる。
仏と神の役割の違いを、一般の人びとはさほど明確に区分しているようには思えない。
むしろ、日本人と同様に、重層化し複合化した観念のなかで宗教的欲求を充足させ、関わっているのではなかろうか。
*052 撮影:1990.08.01(ワット・プラ・タート・ドイ・ステープ)

市内を歩くと、バンコクと同じように、多くのホテルやレストラン、商店や住宅の庭にホー・ピィーの祠が祀られているのが目にとまる。
特に、ホテルではバンコクのエラワンに倣って、プラ・ポムの像が祀られていることが多い。
なかには、道路のロータリーやバスターミナルなどにも祠が祀られているが、形式はコンクリート造りの祠で、一基だけである。
*053 撮影:1990.08.02(ホテルのホーピー)

夕方、宿泊のホテルで、一人の女性従業員がこのホー・ピィーの祠にお参りするのを見た。
ホテルの入口の中庭に祠が祀られており、一般に見る祠よりも大きくて、白色の立派な祠である。
昼間も人目につき易く、夜は一層目立つように全体を赤や青のイルミネーションで飾りたてている。
祠はコンクリートで造られた柱の上に祠堂が置かれ、祠堂をのせた台が人の目線の高さにある。
その前に、供物を置く高めのテーブルがある。
祠堂は台よりも一段と高くその中に金色のプラ・ポムの半跏像が安置され、四方からも礼拝できるようになっている。
*054 撮影:1990.08.02(ホテルのホーピー)

台にはミニチアの踊り子、象、馬などが数体が置かれ、前の供物台にはパイナップルやミカンなどが捧げられ、さらに線香立て、花瓶、水の入つたコップなどが置かれている。
昼から夜へと移行する夕闇のなかで、ホテルの制服姿の従業員は裸足になり、ひざまずいて、合掌した手に火をつけた線香の束をはさんで、何かを祈っていた。
*055 撮影:1990.08.02(ホテルのホーピー)

チェン・マイからチェン・ライに向かって車で県道1019号線を北上する。
チェン・ライまでは、約3時間の行程である。
チェン・マイの市内を出ると、道の両側は田園地帯である。
8月は雨期の季節、熱い日差しと時折やって来るスコール、年によっては雨期の到来が遅れることもあり、人びとは天候を気にしながら田植えを開始する。
北部のこのあたりでも、もはや水牛で田起こしをしない。
*056 撮影:1991.08.27(チェン・マイ郊外)

鉄の牛と呼ばれる日本製の耕耘機が主役である。
しかし、その後の田植えや刈取、脱穀は、今も人の手で行っているという。
稲のクワンを思いやり、人の手でやさしくいたわるとき、クワンは豊作を約束してくれるという。
そうした稲作にかかわる霊魂観は、今も失われていないようだ。
それにしても、ヤシなどの南の樹木がなければ、のどかな日本の田園風景とさして変わらない。
*057 撮影:1991.08.26(チェン・マイ郊外)

やがて、田園を過ぎて緑豊かな山道に入る。
ひところ、海外への木材輸出のために山の樹木が乱伐されたことがあったという。
その後の植林と樹木伐採の全面禁止で、高級材のチークの森が蘇ってきている。
山道に入り、急坂を登って行くと、県境に指し掛かる。
そして、この最後の急坂の手前に、これまで見てきた祠とは少し異なった「県境の神」を祀った祠がある。
*058 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

ここには寺院にしては小さく、祠にしては立派な祠堂が、道路脇の山の斜面にやや離れて三カ所に建てられている。
一つはコンクリート造りの立派な祠堂、他の二つは木造の祠堂である。
祠堂に祀っている神は、二つは「サーン・チャオ・メー」(母なる神)という女神の像であるが、他の一つは明らかに仏陀の座像である。
コンクリート造りの祠堂は左側にあり、コンクリートの階段を20段ほど登る。
途中に脇待が祀られ、祠堂は土台や壁などが白色で四本の柱と屋根は赤色である。
床は白色のタイル張りで、広さは20m2 もあろうか2?30人は優に座れそうである。
*059 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

奥の壁側に一段高くタイル張りの2m四方の台座があり、さらに赤い台座を重ねた上に、等身大の女神の座像が祀られている。
女神はタイの女性と同じく頭髪を結い上げ、目鼻立ちが整い、優しくほほえみをたたえ、白と赤と黄色の布をまとっている。
膝の前には、小さな子供の神像、象や馬のミニチュアが置かれている。
供物を捧げる段が三段あり、一日に何人かのお参りがあるらしく新しい花がたくさん捧げられ、礼拝する正面の床には大きな線香立て、カントークの供物台などがある。
*060 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

行き違いに帰って行った三人の女性参拝者の捧げた供物をみると、丸い盆の上に、数本のバナナ、半分に切ったパパイヤ、スイカ、数種類の菓子などがのせられていた。
周囲には、柱の間にひもが張られ、そこに赤、青、黄色の布が奉納され、色とりどりの造花の花輪が下げられている。
また、神像の頭上には赤い花の天蓋が下がり、いかにも女神らしい華やかさである。
*061 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

中央の祠堂は木造で、こげ茶色の柱と壁、屋根はトタン葺きという、やや地味な祠で、左端の祠堂より小さい。
周囲の雑草がきれいに刈り取られ、木陰の下で静かに休んでいるようなたたずまいである。
こちらにも、小さな女神の立像が祀られていた。
*062 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

しかし、よく見ると先の女神と違い、祭壇は一段で、花や供物がない。
どこか中国風の祀り方なのである。
ただ、周囲には参拝者が奉納したと思われる、コンクリート製のホー・ピィーが10基近く建てられているところを見ると、やはりピィーの神様なのであろうか。
*063 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

さらに、右端の道路に近い斜面に、仏陀を祀った堂がある。
それは、明らかに結跏趺坐をした仏陀の像である。
堂はトタン葺きで、床はコンクリートで、一段と高い台座に等身大の金色の仏像が安置されている。
*064 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

巨大なローソクが何本か奉納され、花なども飾られている。
しかし、この堂の周りにも、何基かのホー・ピィーの祠が建てられている。
*065 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

異なった祠堂が、なぜ一カ所に祀られて同居しているのであろうか。
ピィー信仰という共通の信仰の上に表層の異なる信仰が重なり、このような形態となったものと思われる。
これらの神は、この県道が造られる以前から、この森林に入る村人によって祀られたものなのか、道を造るときに、森の神に許しを請うて祀ったものなのかはわからない。
ただ、峠越えの車があえぐように登ってきて、この祠の前を通過するとき、どの車も必ずクラクションを鳴らし、バスの乗客は窓から身を乗り出して、このサーン・チャオ・メーを礼拝しながら通り過ぎて行く。
*066 撮影:1992.08.08(チェン・マイ県境の神)

こうした境の神を祀った祠堂は、この他にもチェン・ラーイ県とパヤオ県の県境でも観察することができた。
ただ、ここは「サーン・チャオ・ポー」(男の神)が祀られ、祠堂は一つであった。
*067 撮影:1992.08.08(パヤオ県境の神)

(3)チェン・ラーイとその周辺
峠を越え、山を下るとチェン・ラーイ県の広い盆地に出る。
この県はタイの最北端に位置し、その中心の街がチェン・ラーイ市で、メー・コック川の川沿いある。
ここから車で一時間半ほど北上するとチャンセンやメー・サイに至る。
チェン・セーンはメー・コン川をはさんでラオスと接する国境の街、メー・サイはミャンマーと接する国境の街である。
また、チェン・ラーイの北部から東部一帯の山地地域には多様な人びとが多く居住する地域でもある。
*068 撮影:1992.08.08(チェンライ市内)

チェン・ラーイの街の入口には、メーンラーイ王の記念像が建っている。
チェン・セーン時代には南の守りの要所として栄え、メーンラーイ王が1262年に北部タイ地方を統一して、チェン・マイにランナー・タイ王国を開くと、北の守りとしてここに居城が築かれる。
その後、ビルマとの戦いを繰り返しながら、1786年に再びタイ領となる。
このメーンラーイ王の記念像には、毎日市民が訪れて花や供物が絶えない。
*069 撮影:1992.08.08(メーンラーイ王の像)

この街には、ワット・プラ・ケオがある。
この寺院は、現在バンコクのプラ・ケオ寺院に安置しているエメラルドの仏像が、かつてはここに祀られていたといわれる寺院としてよく知られている。
現在、この寺院は近隣の寺院に所属する少年僧の教育機関となっており、たくさんの少年僧が修行に励んでいる。
タイを訪れて以来、タイの仏教徒はどのような葬送儀礼を執り行うのかずっと疑問に思っていた。
バンコクやその周辺にある寺院には火葬場が併設され、コンクリートで造られた小さなパゴダ風の墓石が境内にあるのを見たが、チェン・マーイの寺院にはそれも見当たらなかった。
郊外に出たとき、やっと集落単位で火葬場があるのを見かけたものの、それにしても墓が見当たらなかった。
*070 撮影:1991.08.26(ワット・プラ・ケオ)

この寺院を訪ねたとき、ようやくその疑問が解けた。
寺院そのものが墓であったのである。
よく見ると、故人の小さな顔写真がタイルに焼き付けられ、寺院を囲む塀の内側に所々埋め込まれている。
まさに、壁墓地といったところである。
境内には、小さなパゴダがあり、その中を覗くと、骨壷が納められていた。
また、境内には、菩提樹が植えられており、その根本がコンクリートで囲われ、ホー・ピィーのような簡単な祠が建てられている。
*071 撮影:1991.08.26(ワット・プラ・ケオの壁墓地)

人びとは遺骨をこうした場所に納めるのだという。
別の寺院で、日本でいえば念仏講のような組織を見た。
年輩の男女が多数集まって、仏陀を安置した本堂で経文を唱えているのである。
生と死が同居した不思議な空間にタイの人びとのコスモロジーを見たように思う。
*072 撮影:1991.08.26(念仏講)

チェン・マーイからチェン・セーンに向かって北上する。
その途上で、三カ所のピィーを祀った祠を見る。
一カ所は、チェン・マーイから少し北上したメー・チャンとの境界にある祠である。
そこは、低い山が両側からせまって狭間になっている。
祠堂は、南北を結ぶ幹線道路の脇に建っていて、自動車の往来が激しい。
ここには伝説が残っていて、チェン・セーンの王が軍隊をひきいてこの場所に来たとき、ここで軍隊を休息させたのだという。
コンクリート造りの休憩所が二棟、祠堂が二棟あり、周囲にたくさんの小さなホー・ピィーが建っている。
どんなに古くなっても取り壊さず、自然にまかせているのであろうか、粗末な木造のホー・ピィーも建っている。
*073 撮影:1992.08.09(チェンライ郊外)

中央にある祠堂は、柱や床がコンクリート造りで、吹き抜けの拝殿と仕切りのある神殿が一緒になったような構造で、屋根は波板の鉄板で葺いた立派な堂である。
全体の色はピンクで、天井と縁どりに白が使われた明るい祠堂である。
しかし、色に似合わず、守護神は「サーン・チャオ・ポー」という男神で、祠堂の名前は「キュー・タップ・ヤーン」という国境を守る国の神の社である。
ただ、神殿を覗くと、祭壇にはどこにも神の姿がない。
*074 撮影:1992.08.09(チェンライ郊外)

そればかりか、なんとはなしにひっそりとしているのが気になる。
そこで、その横にある祠堂を覗いてみた。
そこは、掃除が行き届いていて人が住んでいるような気配がする。
赤い屋根と黄色い壁、中は2?30人は入れる広さで、そこには中国風の祭壇に男神像が祀られていた。
*075 撮影:1992.08.09(チェンライ郊外)

メー・チャンからチェン・セーンに向かう途中、左側は広い田園で右側は低い山裾が突き出しているところがある。
ここを迂回するようにしてチェン・セーンへと向かうのであるが、この山裾の高台に村を見下ろすようにして三つの祠がある。
*076 撮影:1992.08.12(チェン・セーン郊外)

左端はトタン葺きの尖った屋根に、コンクリートの柱、壁はレンガ造りの祠堂。
中は10人程度人が入れる広さで、奥にひざまづくと目線の高さになるように祭壇が造られている。
天井から色とりどりの造花が下がり、両脇に水、線香立て、花、象のミニチュアがあり、これらにかくれるように、小さな人形が祀られている。
子供の神様とのことである。
また、中央の祠堂はやや狭く、コンクリート造りで壁の色はグリーン。
*077 撮影:1992.08.12(チェン・セーン郊外)

中の祭壇には神像がなく、飾りは道教の神を祀るような中国風である。
そして、右端に古い木造の祠堂がある。
高台から村を見ると、樹木に囲まれて家々が見え、その向こうに田園が広がっている。
人びとの暮しとこの祠堂との間には、どんな営みがあるのであろうか。
*078 撮影:1992.08.12(チェン・セーン郊外)

チェン・セーンはメコン川のほとりにあり、対岸がラオスである。
ここには出入国事務所があり、地元の人達は簡単な手続きで、小舟でメーコン川を渡って自由に往来出来る。
ここは10?12世紀にかけて栄えたチエン・セーン王国の跡で、今も一方をメーコン川が、他の三方を古い土塁の城壁が街を囲み、仏教遺跡も多く残っており、公園として特別保護地域となっている。
また、少し上流は、三国が接したゴールデン・トライアングルであるところから観光客も多い。
*079 撮影:1992.08.11(チェン・セーン王の墓)

城域内の公園はチークの森になっている。
遺跡として残っている仏塔も「ワット・パサーク」という名前が付けられているなど、この国にとってチーク材は最も貴重な樹木である。
この公園の入り口の脇に、この城を守護する「サーン・チャオ・ポー・パーサク」という男神のチークの神様が祀られている。
*080 撮影:1992.08.11(チークの神様)

この祠が祀られた境内にはたくさんのチークの若木や大木が茂り、それらには神様に捧げる布と同じものが巻き付けられ、それらは聖なる木として保護されている。
その間に、何基かの大小のホー・ピーが建てられ、境内を奥に入って行くと、チークの林の間に、薄いグリーンの祠堂が建っている。
*081 撮影:1992.08.11(チークの神様)

古代タイ風の尖った屋根、拝殿と神殿が一緒になっており、これまで見てきた祠の内では一番立派な祠堂である。
参拝者も多く、ここを訪れたときには、幾組かの参拝者あり、その中に政府の役人らしい制服の男女5?6人のグループがいた。
拝殿は20人程度の人びとが座れる位の広さで、ジュータンが敷かれている。
上がり口の段のところに、盆にのせて線香三本、ローソク二本、花少々を一束にした供花が何束か置かれている。
*082 撮影:1992.08.11(チークの神様)

参拝者は、なにがしかの布施を置き、この供花を買い求める。
正面の神殿にはたくさんの造花や生花が飾られている。
中央にクジャクの羽が重ねて飾られ、そのために神像が見えないのか、神像は祀られていないのかわからないが、いずれにしても神の姿は見えない。
参拝者はひざまずき神前に進み出て、花を捧げ、ローソクを灯し、線香に火を付けて、それを手にして合掌し、それぞれ一心に祈っている。
誰がリーダということもなく、また仏教のように特別の経文を声を出して唱えることはない。
おおむね、旅の安全とか健康、仕事などに関する加護のお願いであるという。
*083 撮影:1992.08.11(チークの神様)

この祠堂の脇をみると、ここにも一棟の中国式の堂があり、入り口の脇には漢字で書かれた看板が下げられている。
堂の中には祭壇があり、小さな箱状の赤い祠の中に神像が祀られている。
よく見ると、神像は赤ら顔の白髪で、着物は白く、陶器で造られ、その台座には、「地主神」と漢字で書かれている。
飾りは、造花やクジャクの羽、象のミニチュアなどがあのものの、タイの祠と比べると粗末である。
しかし、堂には管理する人が居るらしく、きれいに掃除がされていた。
*084 撮影:1992.08.11(中国式の祠堂)

次に、樹木に関するピィーについて、三つの事例を報告しておきたい。
チェン・マーイの街の側にメー・コック川が流れている。
ここからは上流のミャンマーの国境近くのタートンまで、川船でさかのぼることができる。
何度かここを往復しているうちに、ある上流の川岸に大木があるのが気になった。
この川の上流一帯は、川岸近くにタイが、山地にはアカ、ラフ、カレンなどの人びとが住んでいる。
山の樹木は伐採され、川の両岸にはほとんどめぼしい大木はないのだが、この木だけはうっそうと茂っている。
よく見ると、木の根元のところに、木造の赤い祠が建っている。
*085 撮影:1990.08.04(樹木のピィー)

その祠は水辺に面し、川の水の流れもやや淀んでいる。
陸上からこの祠に近づいてみると、ちょうど山裾が張り出して狭くなった地点でもあり、人びとの村の入口にもなっているところであった。
祠は3m位の高さで高床式、神のための階段がついている。
入口に、仏教で用いるトーンという赤い旗が下がり、水つぼや線香立てがある。
しかし、奥には神のための敷物はあっても、神の姿はない。
その前に踊り子のミニチュアが三体あるだけである。
祭りのとき以外は、あまり参拝者もないらしく、静かに川の流れを前にして建っているのが印象的であった。
*086 撮影:1990.08.04(樹木のピィー)

チェン・ラーイの街を出入りする国道の両脇に、ラワンと思われる二本の大木が立っている。
それは気がつくと、遠目にも気になる存在である。
*087 撮影:1990.08.04(道のピィー)

その木の下を見ると、2?30基はあろうか、コンクリート製のホー・ピィーが反対側の木も同様に建てられ、木そのものにもたくさんの布が巻かれている。
それは、一見して木のピィーを祀ったものと思われるが、道路とも、また境界とも考えらる。
スピードを上げて道路を走り抜けて行く車が一様に、この前でクラクションを鳴らして通り過ぎて行く。
*088 撮影:1990.08.04(道のピィー)

この他、チェン・マイに向かう山中で、落雷のためであろうか、焼けただれて幹だけが残っている大木の根元にもたくさんのホー・ピィーの祠を見た。
英語を話すタイ人の運転手兼ガイド氏は、こうした祠の前を通過するときには必ず、こちらがびっくりするような態
度でクラクションをバンバンと叩くのには驚きであった。
*089 撮影:1990.08.04(雷のピィー)

8月後半を過ぎると、シーズン最後のスコールが始まる。
大粒の雨が叩きつけるように激しく降ってくる。
黒雲に追われるようにしてわれわれはチェン・ラーイを後に、帰途につく。
雨はつかの間の大地の恵みなのだ。
後の半年は雨のないひび割れた大地なのである。
*090 撮影:1991.09.06(黒雲とチークの街路樹)

3、タイの人びとのピィー信仰
先ず、タイの人びとのピィー信仰についてのこれまでの研究成果について整理しておきたい。
一般に、タイの人びとのピィー信仰はアニミズムの範疇でとらえられている。
しかし、ピィーの観念は複雑で一様ではない。
その背景にはピィーに関して地域差があると同時に、理解を困難なものにしている一因として、ピィーそのもののもつ観念の多様性がある。
こうした呼称のまぎらわしさや多様性はタイ文化の成立と深く関わっているからであろう。
特に、中国の文化とクメール系のヒンズー文化の強い影響は地域性をもったピィー観念を統合するとともに、より複雑な観念へと展開していったものと思われる。
*091 撮影:1990.08.01(チェンマイの中国式廟)

従来、一般的な分類方法としては、ピィー(精霊)の観念について、その種類を善霊=ピィー・ディーと悪霊=ピィー・ラーイに二分してとらえていく方法がとられてきた。
また、その役割に注目した分類、さらに地域的な分布状況な応じて分類するなど、さまざまな試みがなされてきている。
ここでは、ピィー概念を分布・役割・属性などと重ねながら理解を試みておきたい。
(以下、引用なので略)
*092 撮影:1990.08.01(チェンマイ漆工房のホーピー)

1)地縁組織に関係したピィー(土地神)
2)親族組織に関係したピー
3)悪霊
*093 撮影:1990.08.01(チェンマイ漆工房のホーピー)

4、若干のまとめ
これまで見てきたように、タイにはさまざまな信仰形態が存在する。
一般に、タイの人びとのピィーに関する信仰はアニミズムの範疇でとらえられている。
しかし、ピィーの観念は複雑で一様ではない。
その背景にはピィーに関して地域差があると同時に、理解を困難なものにしている一因として、ピィーそのもののもつ観念の多様性がある。
こうした呼称のまぎらわしさや多様性はタイ文化の成立と深く関わっているからであろう。
特に、中国の文化とクメール系のヒンズー文化の強い影響は地域性をもったピィー観念を統合するとともに、より複雑な観念へと展開していったものと思われる。
*094 撮影:1990.08.01(チェンマイ・バスターミナルのホーピー)

ここではピィーの姿を求めて、その影を追ってみた。
いや、影こそがその実像なのかも知れない。
街にも農村にも人びとの暮らしがあり、そこには確かにピィーがいる。
街にはたくさんの人びとがいて、ピィーは立派な祠堂に納まり、たくさんの供物を受けて、人びとのさまざまな願いに応えることを期待される。
しかし、自然のなかにもピィーはいる。
訪ねる人びとは少なく、粗末な祠堂であっても、人びとの願いに応えることを期待されていることには変わりない。
*095 撮影:1990.08.01(チェンマイのホーピー)

ここで見たのは、こうした祭祀や供養を通じて守護と繁栄をかなえてくれるピィーの姿であった。
だが、悪なるピィーの姿を見ることはできなかつた。
それはタイの人びとの感覚のなかにあって、その影はただの通行人には見ることは困難だからである。
その影を見る手だてがないわけではない。
それは、悪と戦うシャーマニックな人物に出会う以外にないが、この点については今後の課題としたい。
*096 撮影:2000.03.06(バンコクのホーピー)

今回、問題としなかったタイの人びとの霊魂観に、クワンの観念がある。
クワンは霊魂とか魂魄といわれ、生きている人間にやどる霊的存在とされている。
このクワンは、人の一生の節目に執り行われる人生儀礼において、最も強く観念される存在であるという。
それは、このクワンが人格的な存在であり、常に鎮魂の対象としてあつかわれ、種々の儀礼を必要とするところからも知られよう。
しかし、今回はこのクワンの影に出会ったのは、ラオスでの一度の経験しかない。
*097 撮影:1990.08.14(タム・クワンの儀礼)

タム・クワンの儀礼は、プラムと呼ぶ民間バラモン師によって行われ、その儀礼は簡単な呪文とバイ・シーと呼ぶ依代にテワダーを降臨させて祝福を招請する儀礼からなっている。
その後、集まった人びとは互いにサーイ・シンという聖糸で手首を結び合い、クワンを呪縛し強化する儀礼である。
確かに、そこには暖かくやさしい人びとがいて、つかの間ではあったが人びとのぬくもりのなかにクワンの影を見たように思う。
*098 撮影:1990.08.14(タム・クワンの儀礼)

タイの人びとの霊魂観はこうしたクワンのグループに対して、ピィーのグループが対抗するかたちで存在することになる。
しかし、クワンに比してピィーの観念は複雑である。
先に見てきたように、ピィーのグループを善霊と悪霊とに区分できるとしても、それらを対立させて図式的にとらえることは困難である。
とはいえ、善霊としてのピィーはさまざまな儀礼や供養を通じて守護や繁栄を約束し、悪霊としてのピィーは人生の危機的状況においてシャーマニックな人物を介在して防衛と撃退を行う限りにおいては、対立的な存在といえよう。
ただ、ピィーは両義的な性格を有しているがゆえに、慰撫の対象として、人びとは最も関心をはらっているのではなかろうか。
*099 撮影:1990.08.14(タム・クワンの儀礼とプラム)

残された問題は多い。
特に、仏教寺院と人びとの関わり、なかでも祖霊観に関する問題は今後の課題としたい。
*100 撮影:1990.08.14(ラオスの男性衣装にて・菅原)

参考文献
(1)プラヤー・アヌマーンラーチャトン『タイ民衆生活誌』(1)(2) 森 幹男編訳
(1) 1987年(2) 1984年 井村文化事業社。
ピィーに関する理解は、主に第1巻の「精霊・妖怪・魔神の世界」を参照した。
(2)綾部恒雄『タイ族?その社会と文化?』昭和62年 弘文堂
(3)綾部恒雄・永積昭編『もっと知りたい タイ』昭和57年弘文堂
(4)岩田慶治『カミの誕生』昭和45年 淡交社
(5)岩田慶治『草木虫魚の人類学』昭和48年 淡交社
(6)Seri Phongphit with Kevin Hewison 'Thai Village Life' 1990 Mooban Press
*101 撮影:1990.08.14(ラオスの寺院)

(7)菅原壽清「タイ・フィールドノート」1990?1992年
この報告は、1990年より参加させていただいた、麗沢大学「東南アジア研究会」主催によるラオス、タイ北部、中国・雲南省西双版納における山地社会の人びとの調査での合間に得た成果の一部である。
この調査に同行させていただき、海外調査の手解きをして下さった麗沢大学の先生方、とりわけ欠端實教授と竹原茂助教授、タイ国内で救援活動をされているチャイリス・ピパット氏にはこの場をお借りして心よりお礼申し上げます。
*102 撮影:1990.08.14(ラオスの門の前にて)

なお、この報告は駒沢宗教学会(第116回・1992年10月29日)において「タイ北部の民族と宗教」と題して発表したものに加筆した。
追記 このノートは、「タイ族のピィー信仰」(『宗教学論集』第十七輯・第十八輯合併号 駒沢宗教学研究会編 平成4年3月31日)と題して、発表した論文をそのまま用いたものである。
*103 撮影:1990.08.14(ラオスの寺院)

追記 2000年3月、短期間ではあったが調査のために8年ぶりにタイを訪れた。
再訪して驚いたのは、バンコクの変貌ぶりである。
整備された高速道路や鉄道、高層ビルの乱立、中心部の賑わいなどは、この8年の間に確実に変化したことを物語っていた。
ただ、気になったのは、至る所に建設中のビルがそのまま放置されていることであった。
それは、3年前に、タイに発したアジアの経済危機で、それまでの高度経済成長が一気に冷え込み、成長が停滞したままになっていることにあるようである。
今も立ち直ってはいないが、一頃の危機は脱したとのことである。
*104 撮影:1990.08.14(ラオスの国花・ジャンパー)

時間を見て、サイアムスケアーの近く、タイそごうデパート脇にあるヒンズーの神、プロム神を祀った一角を訪ねてみた。
8年前よりも、一層の賑わいであった。
老若男女、特に若い女性の姿が多く、以前よりもはるかに多い参詣者である。
経済危機の影響もあるのであろうか、中央のプロム神を囲んでたくさんの人びとが一心に、道教式に線香を手にし、両膝をついて祈っていた。
通りの賑わいとは対照的に、経済危機がもたらした人びとへの心の陰は傍目で見るよりもかなり深刻なものなのかもしれない。
*105(『タイの人びとのピー信仰』2000.04.01私家版 表紙)

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